大阪地方裁判所 平成2年(わ)1713号 判決 1993年4月27日
主文
被告人を懲役八か月に処する。
この裁判確定の日から三年間、刑の執行を猶予する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(犯罪事実)
被告人は、大阪府巡査として大阪府曽根崎警察署に勤務し、警察官の職務を行っていたものであるが、昭和六〇年一一月四日午後一〇時五〇分ころから同日午後一一時一〇分ころまでの間に、大阪市北区曽根崎二丁目一六番一四号所在の大阪府曽根崎警察署六階会議室において、職務として、甲(当時一八歳)外一名に対し、プロ野球球団阪神タイガースの日本シリーズ優勝を祝って大阪市北区梅田周辺等の街頭で連日繰り広げられていたファンの集団的祝勝騒ぎを助長する行為を戒め、騒ぎに伴って発生した不法事犯との関連についての事情聴取を行うに際し、同僚警察官と共に、右甲外一名に正座するように命じたが、甲が、膝に怪我をしているので正座することができないとしてこれを拒んだことに立腹し、右平手で甲の左側頭部を殴打する暴行を加え、よって、甲に対し、加療約一四日間を要する左外傷性鼓膜穿孔の傷害を負わせた。
(証拠の標目)<省略>
(補助説明)
被告人は、公訴事実を強く否定し、無罪を主張しているので、有罪を認定した理由を補足する。
なお、本件の付審判決定では、付審判請求のあった被告人の一連の行為のうち、その一部である判示認定に沿う部分のみを公訴事実として付審判決定をしているところ、同決定をした裁判所が、その余の部分について、請求に理由がないと判断したのか、それとも別の考えがあってのことなのかは定かではないが、いずれにしても、公訴事実の存否を確定するためには、その前後の被告人の行為をも含めて検討することが不可避であるから、以下、公訴事実の前後を含めた被告人の一連の行動について検討を進めるが、準起訴手続制度の趣旨に鑑み、最終的な審判の対象は、審判に付された公訴事実に限定されるものと考えるので、以下に検討する理由中で、公訴事実以外に犯罪事実を構成する事実を認定することがあっても、それは、あくまで、公訴事実を認定する間接事実として認定するにすぎず、これを処罰の対象にする趣旨ではない。誤解を避けるため、敢えて付言しておく。
一 事実経過
前掲各証拠を総合すれば、次の事実が認められる。
1 甲らが曽根崎署六階会議室で事情聴取を受けるに至る経緯
被告人は、昭和五六年四月一日大阪府巡査を拝命し、昭和六〇年一一月当時、大阪府曽根崎警察署で直轄警ら隊員として勤務していた。
プロ野球阪神タイガース球団は、昭和六〇年一〇月一六日、プロ野球セントラル・リーグのペナントレースにおいて優勝し、次いで、同年一一月二日、プロ野球日本シリーズにおいても優勝した。それが二一年振りの優勝であったこともあって、リーグ優勝をしたころから、多数の阪神タイガースファンが大阪市北区梅田付近や浪速区難波周辺の街頭に出て優勝を祝い、とりわけシリーズ優勝を果たした日以降は、連日のように多数のファンが両盛り場に集まってお祭り騒ぎを繰り広げていた。
甲は、昭和四一年一二月二六日生で、昭和六〇年一一月当時、日中はガソリンスタンドの店員として勤務し、夜間は大阪工業大学短期大学部に通学する学生であったが、昭和六〇年一一月四日午後八時ころから、母親の経営する居酒屋「○○」において、小学校以来の友人である乙(昭和四一年七月六日生)と二人で飲酒した。当日、「○○」は定休日で営業しておらず、甲と乙は、二人だけで、飲酒したり、カラオケを歌うなどしていたが、途中、梅田周辺での阪神タイガースの祝勝騒ぎが話題になり、これを見物したい、場合によってはこれに加わりたい、と考え、二人で梅田方面へ出かけることにした。なお、二人が「○○」で飲んだ酒の量はほぼ同じくらいで、二人合わせてビール中瓶二本及び日本酒一合程度であった。
二人は、同日午後一〇時ころ、乙が乗用車を運転し、甲がその助手席に同乗して「○○」を出発し、途中乙の家に立ち寄り、乙が阪神タイガースファンが試合の応援のときなどに着るはっぴを着用し、甲が阪神タイガースの野球帽をかぶり、乗用車の前部アンテナと後部座席の左右の窓に阪神タイガースの小旗を付け、カーステレオで阪神タイガースの応援歌である「六甲おろし」を流し、プラスチック製のメガホンを打ち合わせ、これに合わせて歌うなどしながら、梅田方面に向かった。
梅田周辺では、前記のとおり、一一月二日以降連日のように、阪神タイガースのファン及びこれに同調する群衆が街頭に集まり、六甲おろしを歌ったり、万歳を叫ぶなどし、興奮した一部の者が、車両の通行を妨害し、あるいはこれを足蹴にして損壊し、難波周辺では、タクシーを横転させてその売上金を奪い、ファン同士が刃物を持ってけんかをするなどの悪質な不法事犯も続発していたが、甲らがナビオ阪急前に到着したころは、付近でそのような騒ぎもなく、平穏な状況であった。
曽根崎署では、昭和六〇年一一月四日(以下、特に記載するもの以外は、同日の出来事であり、年月日の記載を省略する)は、夜の梅田付近での祝勝騒ぎの警戒警備に当たるべき当直勤務員として、A巡査部長以下、B巡査、C巡査、D巡査及びE巡査から成る直轄警ら隊A班五名が予定されていたが、午後五時過ぎころ、警戒警備態勢を増強するため、F巡査部長以下、被告人G巡査、H巡査、I巡査及びJ巡査から成る直轄警ら隊F班五名に対しても、当直勤務が命じられた。
午後一〇時ころ、同署刑事課長から、F班及びA班、合計一〇名の直轄警ら隊員に対し、午後一一時まで、堂山町、ナビオ阪急前、阪神百貨店前付近を重点的に、徒歩で警らするよう指示があり、F班及びA班の直轄警ら隊員一〇名が警らに出発した。
直轄警ら隊員らが、午後一〇時三〇分ころ、ナビオ阪急前に到着し、付近を警戒していたところ、まもなく、乙が運転し、甲が助手席に同乗した乗用車が、前記の様相で走行してきてナビオ阪急前の交差点で信号待ちのため停車した。これを発見した被告人が、乙に、車を道路左端に寄せるように指示し、乙はこれに応じて車を道路左端に寄せて停めた。
そこで、被告人が、乙に運転免許証の提示を求めたところ、乙は、免許証を探していたが見当たらず、不携帯であると答えた。被告人ら警察官は、乙、甲両名を下車させ、曽根崎署への同行を求めた。
乙は素直にこれに応じ、被告人が乙の車を運転し、乙を助手席に乗せて曽根崎署に向かった。他方、甲は、当初、任意同行を拒否する態度を示したが、H及びBの強い説得により、渋々これに応じ、H及びBに同道されて徒歩で曽根崎署に向かった。
曽根崎署駐車場でこれらの者が合流し、被告人が、乙に指示して、前記小旗やメガホン等阪神タイガース関係の所持品を持たせ、五名そろって同じエレベータで、予て阪神タイガースファンの祝勝騒ぎに伴う違法事案等についての処理を行うべき場所として指定されていた六階会議室に向かった。
2 六階会議室における状況及びその後の経過
(一) 被告人が、判示犯行に及ぶまでの経緯
被告人らは、午後一〇時五〇分ころ、そろって六階に着いたが、Hは、当直責任者である刑事課長に乙らを同行してきたことを報告するため、同署二階へ降り、甲が手洗いに行きたいと申し出たため、Bが甲に付き添って便所に行った。被告人は、乙を六階会議室内の椅子に座らせ、その前の机の上に、同人が持参してきた阪神タイガース関係の所持品を並べさせた。
被告人が、乙の提示した所持品を改めているうち、同人の運転免許証が出てきた。そのころ、甲が便所から戻り、Bらの指示で乙の隣の席に座った。
被告人は、乙の机の前に置かれていたプラスチック製メガホンを右手に取り、「お前ら何しに来たんじゃ」などと怒鳴りながら、体を前に乗り出して乙の頭頂部を多数回殴打し、続いて甲に対しても、同様にしてメガホンで頭頂部を数回殴打した。これに対し、甲が、「遊びに来ただけです」と答え、乙も、「新聞やニュースを見て面白そうやから来ました」と答えたところ、被告人ら警察官は、甲らに「お前らの遊びはタクシーひっくり返すことか」「どれだけの人が迷惑してんねん」などと怒鳴りつけた。
次いで、被告人は、甲に対して、運転免許証の呈示を要求したが、甲は、持っていないと答えてこれを拒否した。そこで、被告人は、Bと共に、甲が所持していたバッグの中を見せるよう要求し、甲が渋々これに応じ、バッグの中から財布、煙草、手帳等を取り出したところ、さらに、そのころすでにその場に来ていたHと共に、財布の中も見せるよう求め、甲がこれを拒むと、「何で中見せへんねん。何か隠してんねやろう」などと言って強く開示を求めた。甲が仕方なく開けた財布の中に運転免許証があるのを見つけたHが、これを取り出し、「免許証持ってるやないか。お前ら何うそついてるんじゃ」「お前、年なんぼじゃ。煙草はいくつから吸うてええんじゃ」などと怒鳴り、甲の髪の毛をつかみ、その頭部を机に打ちつけようとするなどした。
(二) 犯行とその後の経過
その直後ころ、後方に居た警察官が、甲及び乙に対し、前へ出て正座するように命じ、同人らは、後方から押されるようにして前に出た。甲の前方に立っていた被告人も、甲に、「正座しろ」と命じたが、甲が、「膝を怪我してるから正座できません」と答えるや、被告人は、「お前、なめてんのか」と叫びながら、右平手で甲の左耳付近を強く殴打した。
続いて被告人は、甲の両肩付近をつかみ、右足で甲の右足を刈ってその場に投げ倒した。
これを見たFは、被告人に対し、甲から離れるように指示して甲に近付き、甲の足を見分して甲の左膝に手術痕があるのを確認し、「よっしゃ、分かった」と言って甲を席に戻らせた。
その後、警察官らは、乙と甲に対し、各別に飲酒の有無を質し、甲がこれを否定したところ、乙がこれを認めたことからHが立腹し、「お前、何うそついとるんじゃ」「お前、酒飲んどるやないか」などと怒鳴りながら、右腕を甲の首に回し、後方に引きずるようにした。これを見ていたFが、「やめとけ、やめとけ」と言ってHを制止し、「お前らがうそばっかりつくから、若いお巡りさんが怒ってるやないか」と甲を叱責した。
そのあと、甲、乙は、Hら三名の警察官に伴われて曽根崎署二階に降りた。
乙は、そのまま交通事故係室に入り、午後一一時一五分ころ飲酒検査を受け、呼気一リットルにつき0.2ミリグラムのアルコールが検出され、誓約書を徴された。そして、午後一二時ころ、連絡を受けて出頭した両親に引き取られ、甲と共に曽根崎署を出た。
一方、甲は、二階に降りた後、交通事故係室から少し離れた二階会計課前廊下の長椅子に、Hの許しを得て横になった。乙が飲酒検査を受け、乙の両親が出頭するまでの間、Hら警察官が何度が甲のところに様子を見に来た。乙の両親がきた時、甲は、耳を押え、うずくまるようにして長椅子に横になっていた。
翌一一月五日、甲は、勤務先のガソリンスタンドに出勤したが、午前中で早退し、行岡病院の整形外科と耳鼻科で受診し、頚椎捻挫及び左外傷性鼓膜穿孔との診断を受けた。受診に際して、甲は、整形外科の医師に対し、「昨夜、警官にどつきまわされ、投げ飛ばされた」旨、耳鼻科の医師に対して、「昨夜、耳を殴られた」旨訴え、整形外科医の助言により、同日マスコミ数社に電話をして事情を訴え、更に翌一一月六日、母親と共に弁護士海川道郎を訪ね、暴行を加えた警察官に対する処分の要求と賠償請求について相談、その手続を依頼した。
以上の事実が認められ、判示事実は前後の経緯ともよく符合し、疑問の余地なく明らかである。
二 被告人及び弁護人の主張について
1 曽根崎署六階会議室において、被告人と甲が向い合い、その後、甲が床に倒れた事実のあることは、被告人も認めているところである。その間の事情について、被告人は、警察官が、甲らに正座を命じたことはない。被告人が、甲に対し、飲酒について質問をしていた際、甲が、巨人ファンだと言うので、「阪神ファンでもないものが、どこでただ酒飲んできたんや」と言ったところ、甲がいきなり「飲んでへんわい」と怒鳴りながら立ち上がってきた。甲の肩に両手を当てて、「なに興奮しとるんや。ちゃんと座っとけ」と言って制止しようとしたが、甲は、胸を突出し、頭突きをするような格好で押してきた。押し止めきれずに後退したが、後方に演壇があり危険なので、体を開いて位置を入れ替え、甲を左に移動させようとした時、甲が腰くだけのようになって尻餅をついたのであって、甲を殴打したり、投げ倒したりなどしていない、と言うのである。
しかし、それでは、甲が倒れた理由が全く分らないのみならず、甲が「飲んでへんわい」と怒鳴りながら立ち上がり、胸を突出し、頭突きをするような格好で被告人を押し、被告人が「なに興奮しとるんや。ちゃんと座っとけ」と言って制止しようとしても、これを押し止めきれずに後退しているという状況があるのに、そばにいた同僚警察官が、誰一人甲を制止しようとしていないのが、そもそも不自然である上、被告人は、体格において甲に数段勝っており、しかも、平素から柔剣道で体を鍛えている現職の警察官であり、また、同僚警察官も同席している警察署内という場所的状況から見ても、被告人は甲に対し圧倒的優位にあり、甲が被告人の述べるような行動に出たとすれば、被告人にとってこれを制止することくらいは、赤子の手をねじるに等しい、極めて容易なことであったと考えられるのに、後方の演壇に行き当たる危険を感じるまで数歩も後退し、しかも、演壇のところまできても、なお押し止め、押し返すのではなく、体を入れ替え、横に持っていこうとしたなどというのはまことに不自然というほかなく、到底信用できない。この点について、被告人は、「少年の挑発にのらないため」強く押し止めることをしなかったためであると弁解している。しかし、胸を突出し、頭突きのような格好で押してくるものを、両肩に当てた手で押し止めることが、何故挑発にのることになるのか。全く理解し難い弁解である。被告人は、「阪神ファンでもないものが、どこでただ酒飲んできたんや」と極めて挑発的、侮辱的な言葉を発したことから、甲が怒って立ち上がったというのであり、また、被告人の供述によっても、六階会議室に入った最初に、阪神ファンの祝勝騒ぎに伴う違法事案との関わりをうかがわせる具体的なものは何もなく、おとなしく素直に職務質問を受けている乙に対し、「君ら、いつもこれ持って騒いでんのか。このはっぴ着てタクシーひっくり返したんか」などと言ったというのである。甲らを挑発し、侮辱しているのは被告人の方である。
2 甲が倒れた際、Fが被告人に甲から離れるように指示したことは、被告人も認めており、そのあとFが甲のところに行き、「大丈夫か」と言って、甲の膝の怪我を確認し、「分った」と言って甲を着席させた、ということは、Fも供述しているところである(第二二回公判調書中のFの供述部分及びFの当公判廷における供述)。被告人の供述するところが真相であるならば、Fは、何故、被告人に甲から離れるように指示したのであろうか。Fは、甲が被告人に向かって行くということがあったので、甲との対処は他の警察官に任せた方が良いと思ったから、というのであるが、そのような事態では、まず、甲に対する制止、叱責が先に出てこそ自然というものである。先ず被告人に甲から離れるよう指示する理由があるとは考えられない。Fは、また、「警察官に向かって何するんや。何でちゃんと座っとけへんのや」と言って甲に近付いたところ、甲が足をかばうようにして立ち上がったので、「大丈夫か」と言って甲の足を見分し、左膝に傷があるのを確認し、甲が足をかばうようにして立ち上がった原因が分かったので、「よっしゃ、分った」と言って席に戻らせた、というのであるが、甲が足をかばうようにして立ち上がった原因が分ったとして、それがいったい何になるのであろうか。甲が席に戻った後も、Fや他の警察官が甲に対し、甲のその前の態度行動について注意ないし叱責した形跡は全くないのである。まことに不自然というほかない。Fの行動は、正座を命じられたのに対し、足に怪我をしているので正座は出来ないと拒否したところ、被告人に殴られ、投げ倒されたという、甲、乙の証言するところを前提にしてこそよく理解でき、Fの説明はとうてい納得できるものではない。
3 弁護人は、甲が証言するような体勢では、大外刈りは掛けられず、もし甲が、ビニールタイル貼りのコンクリート床に、大外刈りで投げつけられたとすれば、甲は重傷を負っていなければならない。甲は、昭和五七年以来、膝や足の故障で再三治療を受けており、この傷病歴から見て、甲の下半身には通常人と比較してもろさがあり、甲が不自然な形で倒れたのは、下半身のなんらかの不具合が原因であると推認される、と主張している。しかし、甲、乙が、「大外刈りで」、「大外刈りのようにして」、「大外刈りみたいな柔道の技」と述べている趣旨は、その証言自体からも明らかなとおり、試合中に教科書通りの大外刈りを決められたのと同じようにして投げられた、と言っているのでは決してなく、向い合った体勢で両肩をつかみ、被告人の右足で甲の右足を刈るようにして投げ倒された、と述べているにすぎないのであるから、床で背中、肩、後頭部辺りを強く打ったが、結果として頸椎捻挫に止まったとしてもなんら異とするに当たらない。また、行岡病院のカルテ等によれば、確かに甲は、昭和五七年以来、再三膝や足の治療を受けている事実は認められるが、いずれも治癒しており、昭和六〇年七月の検査で、膝の可動域は正常であり、以後、検査の必要もないと診断されており、本件当時、甲は、日中はガソリンスタンドに勤務し、夜間は大学に通学し、休日には、クラブチームに所属してラグビーを楽しむなど、正座がしにくいというだけで、肉体的になんの支障もない日常生活を送っていたことが認められるのであって、ほとんど力も加えられていないのに、下半身の不具合から、突然腰くだけのようになって尻餅をつくようなことは考えられない。
弁護人は、被告人から殴打され、投げ倒された状況についての甲証言は、その状況について、毎日放送の取材を受けた際のビデオで甲が説明しているところと相違しており、甲証言は信用できないと主張している。しかし、毎日放送の取材の際は、警察官から耳付近を平手で殴られ、柔道の大外刈りのように足を掛けて投げ倒されたという事実を、視覚に訴えて説明したにすぎず、その際の手足の位置や運動の方向まで厳密に考えて演じたものではない、との趣旨の甲証言の説明は、取材の目的、性質に照しても十分納得することができ、殴打の際の手の動きや大外刈りの際の組み手についての、証言とビデオとの間の若干の相違のごときは、なんら甲証言の信用性を落とすものとは考えられない。
4 また、弁護人は、B証言によれば、甲が席に戻った後、Bが、甲に飲酒場所等について質問したが、甲が「飲んでへん」と言うだけでそれ以上答えなかったので、演壇の前にいた乙のところに行き、息を吹き掛けさせるなどして飲酒していることを確認し、「君、やっぱり飲んでるやんか。何で正直に言うてくれへんねん」と言いながら近付いたところ、甲がいきなり「飲んでへんわい」と怒鳴り、頭突きをするようにして向かってきたので、とっさにこれを手で払い除けた際、手の甲が甲の耳付近に当たった事実が認められるので、甲の鼓膜穿孔は、このBの手の甲によって生じた可能性があるというのである。しかし、Bは、ナビオ阪急前で甲に職務質問を始めた当初から、甲は、顔から首筋にかけて赤く、目は充血し、息遣いも荒く、強い酒臭をさせていて、飲酒していることは一目瞭然であったと述べているのである。甲に対して直接そのことを指摘し、あるいは甲自身に息を吹き掛けさせたりするのではなく、わざわざ乙のところに行って、乙に甲との飲酒を確認し、乙に息を吹き掛けさせて確認しているところを甲に見せることによって、甲に飲酒の事実を認めさせようとした、というのは、いかにも迂遠で、不自然の感を免れない。しかも、その様子を甲は見ていたと思うが、見ていたかどうかは確認していないと言うのであるから、なおさらである。また、この点についてのBの供述は、手が当たった態様、部位、強さの程度等について一貫性もなく、容易に信用できない。そして、仮にBの手の甲が甲の耳付近に当たることがあったとしても、鼓膜穿孔を惹起する可能性という観点から、B証言にあるその手の甲の当たり方と、甲証言にいう被告人の手の平の当たり方とを比較すれば、可能性としては、はるかに後者の方が高いと考えられるのである。
5 二階に降りた後、甲が、会計課前廊下の長椅子に、Hの許しを得て横になっていたことは、H証言によっても認められ、また、甲は、二階で待っている間に三回くらいHが様子を見に来た、と証言しており、H証言によっても、Iに甲の様子を見に行かせた、というのである。何故、甲は横にならせてくれとHに許しを得なければならなかったのか。何故、Hは、甲の様子が気にかかったのか。Hは、甲が横になったのは、酒の酔いのせいで気分が悪くなったためであろう、というが、甲の酔いの程度やその場の状況から見て、そのような説明は到底納得できない。
また、被告人やH、Bら警察官の証言によれば、甲は、六階会議室で、二度にわたって頭突きをするような格好で警察官に突っかかっていくなど、相当問題のある態度行動をとっていたことになるのであるが、長椅子に横になるについてもHの許しを求めるなど興奮することもなく落ち着いた状態であったはずの二階での甲に対しても、説諭訓戒等がなされた形跡は全くない。この点でも警察官らの証言は信用できない。
弁護人は、以上検討してきた点以外にも、被告人の弁解をこそ信用すべき旨るる意見を開陳しているが、甲、乙の公訴事実に沿う証言が信用するに足り、被告人の弁解及びこれに沿う被告人の同僚警察官らの証言が信用し得ないものであることは、以上見てきたところから、もはや明らかであり、これ以上論ずるまでもないものと考える。
(法令の適用)
被告人の行為は、刑法一九五条一項の罪を犯して傷害を負わせたものであり、同法一九六条に該当するので、同法六条、一〇条により、同法一九五条一項所定の刑と平成三年法律三一号による改正前の刑法二〇四条所定の刑とを比較し、重い刑法二〇四条の傷害罪について定めた懲役刑によって処断することとするが、本件では、被害者甲が被った肉体的、精神的被害が決して浅くないことはもとよりであるが、それにもまして、市民に信頼される警察をめざし、営々として日々努めている大多数の真面目な警察官の努力に水を差し、警察に対する市民の信頼を大きく失墜させた点で、被告人の責任はまことに重いと言うべきである。それにもかかわらず、被告人に真摯な反省の態度がうかがえないのは、まことに遺憾である。また、本件は、犯行そのものが、権力をかさにきた許しがたいものであるばかりでなく、同僚警察官らがそろって、被告人の弁解に合せて到底信用しがたい証言に固執するなど周辺の状況にも遺憾というほかないところがある。ただ、被告人個人の刑事責任という観点に限定すれば、犯行は、当時の状況とその場の雰囲気にも影響された偶発的犯行という側面もないではなく、被告人も、平素は、警察官として真面目に勤務し、本件後も功労により再三、部内表彰を受け、地域のボランティア活動にも積極的に参加しているなどの事情も認められ、さらには、本判決が確定すれば、被告人は、法律の規定により、資格を失って失職する、という厳しい社会的制裁も予定されているので、これらの事情も考慮し、所定刑期の範囲内で被告人を懲役八か月に処し、同法二五条一項を適用して、この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により、全部これを被告人に負担させることとする。
(求刑 懲役一年一〇月)
(裁判長裁判官西田元彦 裁判官野田恵司 裁判官山内昭善は、転任のため署名押印することができない。裁判長裁判官西田元彦)